塩にまつわる民俗文化


「珠洲の塩」用語辞典

藩政下(江戸時代)の塩づくりに関する用語
塩手米
(しおてまい)
加賀藩独自の塩の専売制度。藩が「塩士」の生産費および食料として、前もって米を貸与し、一定の割合で塩に換算して、生産した塩で返還させた。「塩士」は、自家消費用の塩すら原則手元に残せなかった。
追塩手米
(おいしおてまい)
実際の生産額が予定より超過した場合に、さらに交付された追加の米。褒賞や増産奨励の意味から、「塩手米」のときよりも換算率が「塩士」側に有利になっていた。
塩手年貢
(しおてねんぐ)
塩士が、前年に貸与される「塩手米」に応じて上納する塩。
塩概
(しおがえ)
塩と米の換算率。米が高ければ藩が有利となり、塩が高ければ「塩士」の利益が増す。「塩概」の高下は「塩士」の死活問題であったが、藩が一方的に決定した。
米一石に対し、塩納約九俵が通説。
 ※一石は十斗、一斗は十升。(加賀藩の一俵は五斗入り)
定升
(さだしょう)
「塩概」によって定められた、米一斗にあたる塩の量(=四斗五升)のこと。
御塩蔵
(おしおぐら)
生産者が上納した塩を、収納・保管する倉庫。能登一帯の海岸の村々に設けられた。藩による建造が原則であったが、村の費用でつくる地普請のものもあり、江戸末期に藩財政が窮乏化してからは、まれに個人建造の私有の倉庫もあった。
洩塩
(もれしお)
塩の横流しのこと。四十物(あいもの・魚の塩物)の塩や、素麺製造、その他町村の使用する塩の量にも目を光らせ、厳重な取り締まりが行なわれた。
喰塩
(くいじお)
農民が消費する米。春秋2回に分けて支給されたが、煩雑な手続きを要した。ただ、能登と越中の百姓「喰塩」は、「塩奉行」宛の書類だけで入手できた。
開作法(改作法)
(かいさくほう)
加賀藩最大の農民・財政政策。塩の専売制もこの一環と考えてよい。
塩木
(しおぎ)
塩づくりには大量の薪を要する。この製塩用の燃料を「塩木」といった。山林関係の諸役人が塩方を兼務することが多かった理由は、山林管理が「塩木」と深く関係したためである。
七木の禁
(しちぼくのきん)
加賀藩が領内の材木保護のために、杉、ケヤキ、ヒノキなど重要樹木7種を決めて、伐採を禁止した政策。民間の所有林・屋敷林も対象であった。「塩木」のための特例措置が行なわれることもあったが、「塩士」が「塩木」代金を支払えないために住宅を売却した証文も残っている。七木の制とも。
塩作食銀
(しおさくじきぎん)
作食米と同種のものと思われる。江戸中期以降の文書には見られない語。作食米は、当座の食料として農民に貸し付けられた。
塩問屋
(しおどんや)
「御塩蔵」から直接、塩を受理できる商人。藩が地方の豪商から選んで免許を与えた。欠員補充や新規の場合、前もって「塩取締役」から「塩奉行」に対して任命が必要な理由とともに候補者を上申した。
小売人
(こうりにん)
塩を直接消費者に売るのが「小売人」で、これも「塩裁許人」の免許が必要だった。「小売人」は「塩問屋」へ代銀を前納し、「塩問屋」が発行する売渡通知書を「御塩蔵」へ持参して現品を受け取った。「御塩蔵」は数量・買受人を記入した帳簿を、さらに「塩問屋」の原簿と照合し、余分の売買の無いことを期した。

江戸時代の藩側(加賀藩)の役職・役所名
塩奉行
(しおぶぎょう)
製塩業を総括する藩側の最高責任者。塩の収納・販売その他の事務一般を掌握し、各村の巡視、役人の指揮監督を行なった。塩の生産者に米を渡す際は、「塩奉行」が村々の代表者を呼び出して渡した。「御塩奉行」。
御塩方
(おしおかた)
改作奉行の全員が「塩奉行」を兼務していた専売制初期の頃の呼び名。
御塩裁許所
(おしおさいきょじょ)
収納・販売の実務処理や、塩づくりに関係する訴訟の裁判を行なった現地役所。所口(現・七尾市)と宇出津(現・能登町)に常置された。「塩裁許所」
御塩裁許人
(おしおさいきょにん)
「御塩裁許所」の責任者。士分(まれに足軽)から任ぜられた。「塩裁許人」
小代官
(こだいかん)
本来は郡奉行の下で改作の手伝いや山林・水利等に当たる役職だが、能登では製塩地に出張して実務を処理した。「塩裁許人」の配下に属した。
御塩吟味人
(おしおぎんみにん)
製塩地を巡回して、「洩塩」を取り締まった役。現地の「塩裁許所」に詰め、「塩裁許人」の配下に属した。初期は士分(主に足軽)から任ぜられ、のちには農民から選任された。「塩吟味人」

江戸時代の村側の役職名
塩取締役
(しおとりしまりやく)
村役人側の最高責任者。製塩業者と藩当局との間に立って、塩の収納と販売の事務を掌握した。御扶持人「十村」(とむら)が兼務することが多かった。
塩相見役
(しおあいみやく)
「塩取締役の補佐役。上納された塩を貯蔵する「御塩蔵」の開閉に立ち会った。普通は村「肝煎」が兼帯した。「御塩相見人」ともいう。
山廻り
(やままわり)
本来は「七木の禁」の取締りなどに任じた役だが、能登の製塩地の「山廻り」役のほとんどは、「塩相見人」か「塩吟味人」を兼ねていた。
枡取役
(ますとりやく)
「御塩蔵」へ収納する塩を俵詰めにする際、その容量を測った役。枡の加減ひとつが重大な影響をもつので、所轄の「塩裁許所」へ出頭して宣誓することを要請された。枡の毀損は原則許されなかった。

その他の塩づくりに関する用語
揚げ浜式
(あげはましき)
海水を汲み上げて撒布する製塩法。塩田は海面より高いところにあるのが普通。他の地方で入り浜式に移行するようになっても、能登では揚げ浜式製塩が行なわれ続けた。その理由として、西日本に比べて潮の干満の差が小さいことなどがある。
入り浜式
(いりはましき)
揚げ浜式を改良し、瀬戸内地方など西日本で導入された製塩法。潮の満ち干きを利用して、海水を塩田に引き込む。塩田は満潮時の海面より低いところに作られる。
塩士
(しおし)
海岸の村で、塩の生産にたずさわった製塩業者。生産者であると同時に経営者でもあった。農業と製塩の多角経営を行なっていた場合が多い。大規模な塩田地主が発達することはなく、家族労働と雇用労働により、製塩に従事した。
江戸時代に「塩士」が交代するには、元の「塩士」と代わりの「塩士」の名を列記し、廃業の理由と推薦の根拠を述べた覚書を、肝煎か塩方肝煎代が、「御塩方吟味人」または「御塩取締役」である十村に提出した。しおじとも。
浜士
(はまじ)
「塩士」のもとに雇われた製塩労働者。江戸時代には、一般に一年契約で、塩田に撒布する海水の撒き方の技術・熟練度が賃金の基準のひとつになっていた。浜師、浜仕とも。
砂取節
(すなとりぶし)
塩田用の砂を、最適の砂浜から砂取り舟で運搬する際にうたわれた労働歌。哀調を帯びた曲節をもつ。実際には、砂を満載している帰路は歌どころではなく、往路の空船のときに唄われたといわれる。石川県指定無形民俗文化財。

(せき)
塩田を数える単位。(舟と同じ単位で数えるのは、砂取り舟一隻の砂量の撒布面積に関係しているからと考えられる。)
『老の路種』
(おいのみちくさ)
幕末の革新学者(儒学者)であった上田作之丞の著書。この中に、能登を訪ねて塩田作業を見たときの感想が、過酷な労働への悲憤を交えて述べられている。
『北国能登島記』
(ほっこくのとじまき)
享保12年の作、著者不明。文中に能登の塩づくりのようすが描写されている。
『民家検労図 』
(みんかけんろうず)
手彩色の絵61図から成る農作業の解説書(著者・刊行年不明。文化文政期ごろの成立とされる)。塗浜の塩づくり4工程の図が掲載されている。
『能州塩焼之図 』
(のうしゅうしおやきのず)
能登の塩づくりのようすが描かれた図。個人蔵。

(うま)
一般に、馬の数は近世を通じて減少していくが、珠洲では明治に入ってもほとんど変化が見られなかった。製塩業が重要な産業であった珠洲では、塩薪の運搬が人々の重要な稼ぎになっており、馬はそのために必要であったためと考えられる。
喜兵衛どん
(きへえどん)
昭和34年まで実際に能登の揚げ浜塩田で使われていた製塩の用具を収蔵している、珠洲市上戸町の旧・肝煎の館(喜兵衛は屋号)。収蔵品が国指定の重要有形民俗文化財に登録されている。現在は一般公開していない。
時国家
(ときくにけ)
室町時代後半から下人を使って大規模な農業や製塩業で栄えた土豪。江戸時代は天領であった。現在の輪島市町野町にあり、見学可。
下時国家
(しもときくにけ)
加賀藩領で代々、十村役や肝煎、「山廻り役」、能登外浦一円の「塩吟味役」など製塩業務の諸役を務めた豪農。現在の輪島市町野町にあり、見学可。


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