珠洲の塩の歴史


古代土器製塩〜揚げ浜式製塩の成立〜加賀藩の塩手米制度〜人々の暮らし〜維新後の再興〜専売制の時代の衰退〜自由化による復活

「珠洲の塩」歴史年表










古代 土器と海藻を用いる「土器製塩」が能登で行なわれる。
・珠洲市では、三崎地域を中心に製塩遺跡が分布。同地域の森脇遺跡は、製塩土器片のおびただしい堆積層をもつ。
・能登で製塩土器が出土した場所は、古墳時代が14箇所、律令時代が11箇所。
8世紀 自然浜を利用した揚浜式塩田による製塩が能登(羽咋)で行なわれる。
平安中期 能登半島と敦賀湾岸に見られた「塗浜」の様式は、この頃に成立したと考えられる。
(塗浜の成立時期は、これよりずっとおそい江戸期寛永年間と考える学者もいます。) 
鎌倉時代 能登の熊木荘(現在の七尾市中島町)の多気志(たぎし)・長前(ながさき)・深浦に塩釜が据えられて、盛んに塩を焼く煙を上げていたとの記録が残る。
室町時代頃 能州輪島から船で津軽に来て、塩釜をつくって盛んに製塩した者がいたとの記録が残る。
慶長元年
(1596)
仁江(珠洲の地名)地内、谷内浜で製塩が行なわれていた記録が見える。
<珠洲における塩田での塩づくりが文書で確認できる最初>





















寛永4年
(1627)
加賀藩が塩生産者に米を前もって貸与し、その代物として塩を収納する「塩手米制度」を開始。三代藩主前田利常が塩づくりの重要性に着目し、いち早く専売制を敷く。
(専売制の成立時期は、これより20年ほどおそい承応〜明暦年間と考える学者もいます。) 
 同年 能登奥郡(珠洲郡・鳳至郡)の年貢・塩の算用を担う奥両郡算用場が飯田に置かれる。
寛永7年
(1630)
加賀藩が「貸釜制度」を整備。藩所有の鉄製の塩釜を、鳳至郡中居村の鋳物師に造らせ、6年間借賃を藩に上納させ、のち釜を払い下げる制度。
慶安5年
(1652)
7月に、加賀藩横目(監察官)堀彦太夫が塩生産に携わる百姓たちの窮状を10カ条の報告書にまとめる。同年8月に前田利常が8カ条の「定」を出し、百姓経営の回復が図られる。
万治3年
(1660)
加賀藩による専売制が一時中断。
寛文2年
(1662)
再び専売化される。
寛文5〜11年
(1665〜71)
能登奥郡(珠洲郡・鳳至郡)の塩生産高の年間平均が約19万6000俵。
天保3年
(1832)
藩全体の生産高の87%を奥能登が占め、その80%を珠洲が占めていた。塩による利潤で参勤交代費用の4分の1をまかなえるほどであった。
嘉永6年
(1853)
能登の塩づくりの最盛期。
幕末から明治にかけての能登の塩の生産量は、年間約50万俵(2万余トン)。
安政4年
(1857)
奥郡の塩方肝煎代や塩士総代連名による歎状(なげきじょう)。嘉永5年(1852)以降の定升上昇を、文政のように4斗5升に戻してほしいとある。幕末の藩財政窮乏補填のために定升が上昇したと思われる。また、安政年間は塩の不作が続いた。
幕末の思想家・上田作之丞が能登の塩田を訪れ、その過酷な労働を目にした感想を、著書「老の路種」(おいのみちくさ)に綴っている。












退

明治4年
(1871)
7月、廃藩置県により、加賀藩が塩専売制度を廃止。
明治5年
(1872)
七尾県が12月の仕入米から塩手米制度を廃止。
 同年 塩士の生活が塩手米制度廃止の影響で困窮しはじめ、藻寄行蔵が七尾県参事に直訴、大蔵省から製塩資金の融資に成功し、自ら製塩取締役となり指導を行なう。
明治21年
(1888)
藻寄行蔵の業績を讃え、塩士らが「奥能登塩田再興碑」を建立する。
明治38年
(1905)
国が塩専売制度を実施、塩田整理を開始。(瀬戸内地方などの入浜式塩田に比べて生産性の低い揚げ浜式塩田を整理。これを境に能登の塩づくりが消滅に向かう)
明治43年
(1910)
第1回塩田整理により、能登の塩の年間生産量が1万3千トンにまで激減。
昭和3〜4年
(1928〜1929)
珠洲外浦地区などの一部を除いて、生産が禁止される。(理由は安価な植民地塩の流入)。昭和4年の第2回塩田大整理により、能登の塩の年間生産量2千トンに。
 戦後 化学式製塩法が普及、日本の塩は生産過剰に。















昭和34年
(1959)
塩業整備臨時措置法により、日本で海水からの直接製塩が禁止(イオン交換膜製塩以外)。昭和34年9月30日をもって、能登の揚げ浜式塩田が姿を消す
伝統技術の保存と観光を目的として、珠洲で3軒だけが残される。
昭和35〜36年
(1960〜1961)
残った3軒のうち角花家以外の2軒が転業。(専売制の下で、当時で年間数万円の赤字が生ずる買上限度額の設定された“保存”政策により、塩業では生活できなかったため) これにより、角花家が日本唯一の揚げ浜製塩の担い手となる。
昭和44年
(1969)
能登の揚浜製塩用具が、国指定の重要有形民俗文化財に登録。
平成4年
(1992)
揚げ浜式製塩が、石川県無形文化財に指定
平成7年
(1995)
珠洲市が奥能登塩田村(塩の総合資料館)をオープン





平成9年
(1997)
国が塩専売法を廃止、塩事業法施行(5年間の経過措置を経て、平成14年に完全自由化)
地域づくり活動の一環で、塩についての勉強会が地元有志によりスタート
珠洲市内の民間事業者らにより、珠洲の塩田の復活・増加
平成20年
(2008)
能登の揚浜式製塩の技術が、国指定の重要無形民俗文化財に登録。

 [参考文献] 「珠洲のれきし」 珠洲市 (平成16年)
「能登の塩」 下出積與
〔宇都宮書店〕 (昭和43年)
「石川県の諸職−石川県諸職関係民俗文化財調査報告書−」石川県教育委員会編(「製塩」西山郷史) (平成3年)
「いしかわ人は自然人No.20」橋本確文堂(「能登の塩づくり」西山郷史) (平成4年) 
「塩の道」 平島裕正 〔講談社現代新書382〕 (昭和50年)
「古代日本の塩」 廣山堯道、廣山謙介 〔雄山閣〕 (平成15年)
大林淳男 講演要旨『塩の道』―とくに「古代製塩法」について―〔豊橋創造大学短期大学部研究紀要 第21号〕 (平成16年)